“食”を知ることで“生”を見つめる──『いのちの食べかた』

ちょっと前のBSE問題に始まり、ここ最近の消費/賞味期限の改ざんなど、食問題が見直されるどころか、次から次へとボロが出てくる昨今。まあ、陰でコソコソやられるよりは公になったほうがまだマシだから、あまり神経質になりすぎるのもどうかとは思う。ただ、品質表示すら疑わしいとなると、私たちも情報をただ鵜呑みにするんじゃなくて、もっと“食”と真剣に向き合うことが必要なのかもしれない。そんな“食べるということ”の意味を、いろいろと考えさせてくれるのが、このドキュメンタリー映画『いのちの食べかた』だ。
まず、始まってすぐに驚かされるのが、ドキュメンタリーにつきもののナレーションもなければコメントもない、その上、BGMさえかからないということ。ベルトコンベアで運ばれる大量のヒヨコ、整然と吊るされている豚の肉、水に浮いた大量のリンゴ、房取りトマトやホワイトアスパラの収穫などなど、めったに目にすることのない“食の生産現場”映像が淡々と映しだされてゆく。
にもかかわらず、退屈するどころか、目はスクリーンに釘付け状態。逆に説明がないぶん、先入観なしのまっさらな気持ちで見られるし、「いま、目の前で起こっている光景は何なの? どうなるの?」と、頭を回転させながら見ることになるので、否応なしに引き込まれてしまうのだ。まさに、絵が口以上に物を言う、といった感じ。
そして、さらに驚くのが、食料を生み出す現場が思っていた以上にクリーンで機械化されている、ということ。とくに、牛や豚を食肉に加工する場所は、生産・管理・衛生がビックリするほど行き届いているのだ。
とはいえ、この徹底した合理化というのも善し悪しで、私たちの血となり肉となるモノをつくっているはずなのに、すっごく無気質な感じがする。たとえば、広大な畑を悠々と行進する大型機械、あるいはヒマワリ畑を低空飛行し薬をまく飛行機、あるいはアーモンドの木の実を巨大マジックハンドで揺さぶり落とす機械。さらに、そこで働く人々でさえ、機械的に作業をこなしてゆく。
効率を考えて人間がつくりだしたシステムだということはわかっていても、なんだか機械に支配された、命が軽んじられるSF映画の世界を目の当たりにしているような錯覚に陥る。

だからといって、約2年間かけて取材し撮影したニコラウス・ゲイハルター監督は、この合理化システムや誰かを糾弾しようとはしない。あくまでも客観的に、ときには美しいとさえ感じさせる映像で、“現実”を見せてゆく。
なかには、「牛(うし)」が処理されて「牛肉」になるシーンも出てくる。私たちが実際に見ることのほとんどない作業の様子に「いのちを食べることとは、こういうことなんだ」と、動揺する人も多いだろう。とはいえ「だったら、お肉は食べなきゃいいんでしょ」と言うのは、あまりにも短絡的だ。なぜなら、食べる食べないにかかわらず、これが世の中の現実で、自分はその現実の一端によって「生かされている」のだから。
監督いわく「観客にはただこの世界に飛び込んで、自分なりの受け止め方をしてほしい」。そう、まず目を背けないこと、そして知ること。きっと、見る前と後とでは“食”との向き合い方が変わると思いますよ。
『いのちの食べかた』 渋谷シアター・イメージフォーラムほかにて公開中、以下全国順次公開
オフィシャルサイト http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
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2007-11-16 【映画】 | 固定リンク
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「いのちの食べ方」★★★
ニコラウス・ゲイハルター監督、92分
ドキュメンタリー作品、オーストリア、 ドイツ、2005年
鶏のまるごと冷凍になったものを見ると、
思い出す事がある、
小さいころ祖父母の家に遊びに行き、
畑の傍らの小さな小屋で
祖母が鶏を...... [続きを読む]
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